どうにも「コレじゃない感」が漂うAIモノ。
ニール・ブロムカンプは、『第9地区』こそオールタイムベスト級だったものの、『エリジウム』、『チャッピー』と、続けて凡作になってしまったのはなぜなのだろうか。
本来プログラムどおりに動くAIが意識を持ってしまったが、最初は言葉もわからず、赤ん坊のような状態から徐々に育っていく過程が丁寧に描かれる。ギャングに育てられたチャッピーが善悪の概念や他人へのやさしさなどを、歪ながらも学んでいくところだとか、教育とは何か、倫理とは何かといったテーマをコメディタッチで描いたところは面白かった。
ところが、この他はどれも納得がいかない。
ナード技術者が開発したAI搭載の自律型ロボットと、マッチョ技術者が開発した脳波操縦型ロボットとの対比は面白いと思ったのだけれど、結局はマッチョ技術者が脳味噌まで筋肉なおかげで、どうにもこうにもまともな比較にはならない。
最もいただけないのは、意識とは何かというテーマが軽すぎる。最初のチャッピーの意識獲得は偶然だったにしても、意識を持ったAIがいくら優秀だからと言って、インターネットの検索結果から意識とは何かを天啓のごとく理解するなんて、陳腐すぎるだろう。
しかも、なんでそれが「AIの意識」だけではなく、「人間の意識」も解明したことになるのか。
人間の脳波をサンプリングする機械で、チャッピーの意識までサンプリングできるなんて、お前のAIは脳味噌でできているのか。まさか、人間機械論の強烈な主張だとでも?
そして、サンプリングした意識を最終的にロボットに転送できてめでたしめでたしって、意識の問題を舐めてるとしか思えない。
さらに、「僕は黒い羊」っていうセリフも掘り下げが浅すぎるだろ。確かにチャッピーは弾丸で撃たれまくったけれども、ギャングは平等に弾丸で撃たれまくるものだ。そこから「どうして僕をいじめるの」といったところで、ヒトではない存在の疎外感なんてまったく伝わってこない。それはお前がロボットだからじゃねーよ。
だから、ラストシーンで意識を持った自律ロボットが増殖する可能性を描いても、ヒトとは違う知的生命の誕生などという大きなテーマではなく、ヒトが機械のボディを得て不老不死になろうとすることに矮小化されてしまい、「黒い羊」の意味はどこかに飛んで消えてしまった。
お前はママさえ復活できればいいのかよ。その後、幸せに暮らしました、めでたしめでたしでいいのかよ。
おそらく、前評判や宣伝から思っていたストーリーと違っていたことでマイナスが大きくなっているだけだとは思うけれど、興味深いテーマをちりばめながらも、どれも掘り下げが浅すぎて失望した。
パステルカラーに塗られた銃器とか、実在するポンテタワーの使い方とか、顔の無いチャッピーの表情をフェイスガードの上げ下げだけで演技させたりとか、カタカナで“テンション”とか、映像的な面白さは充分だっただけに、とても残念だ。